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従兄弟に連れられて梅小路に連れてもらいました。勿論遮光幕は全部閉まってたんですが、大阪らからった乗務員が自分の後ろを除いて開けてくれたんです。嬉しくて従兄弟に「此処で良い!」と言って京都まで楽しみました。帰りは15時頃の京都始発に乗ったんですが、ガラガラで今の盛況ぶりが信じられませんでした。
大阪~京都間を往路ブルーライナー(153系)、復路シティライナー(117系)と乗り比べた事を思い出します。急行の「お下がり」感もあり少し古びたブルーライナーに比べ、内装が阪急6300系みたいに豪華だったシティライナーにすごく感動したのが懐かしいです。新快速で使われた車両で一番好きな車両は?と聞かれたら私は今も117系推しです!(今の223系、225系は確かに速いんですが何か車内が無機質に感じるので)
三重県中勢民だったゆえ、153系も新快速も全く縁がありませんでした。ようやく乗れたのは昭和58年5月、既に117系の時代になっていました。もっとも117系も三重では乗れませんでしたから、大興奮したのを覚えています。153系新快速、一度でいいから乗ってみたかったです。MT46の音はMT54と違って、かなり静かだったらしいですね。
懐かしいですね 高槻在住だったので当時通過でわざわざ大阪まで行き京都まで乗った記憶があり車内販売もありましたね 京都大阪三ノ宮明石西明石でしたね停車駅‥今の新快速は停車駅多すぎる
153系の新快速は幼い頃の憧れでした。懐かしいです。いつか乗りたいなぁと思っていたらいつの間にか117系に置き換わってしまい、残念に思っていました。
153系の新快速、クハは結構クハ165が入っていました。その後117系の置き換えで状態の良い車両は大垣に移りました。もう時効かな、当時回復運転で130キロ出しているのに乗っていてびっくりしたことがあります。今は223や225で当たり前ですが。
当時の新快速と現在の新快速は全くの別物です。
新快速といったら自分のなかっではやっぱりこの頃。神戸通過の時もありましたね。今は停車駅多すぎる。
153系の新快速の編成はたまに153系の湘南色が中間車両になっているケースも見れましたね。
普段私鉄なんで、ごくたまに国鉄に乗るとこの大きな目玉が怖かったなぁ。
午後3時が最終列車だった国鉄新快速💡懐かしい✨
大阪を出たら新大阪高槻を止まらず京都までノンストップでしたよ
神戸駅も通過でしたね。
そうですね、当時は特に新大阪に止まるようになったときは、尖りがなくなりとても寂しい気がしました。でも今は欠かせないですし、両数、本数、速度とも本当に便利に進化しましたね。
@@hawk2567様然し新大阪と高槻を止まっても当時と大阪~京都まで所要時間が変わらないのが凄いですね‼️贅沢を言えばAシートをもっと増やして欲しいです‼️
万博前は快速すら通過していた新大阪。茨木、六甲道、垂水とともに1970年3月8日から内側快速が停車。1972年3月15日の山陽新幹線岡山開業で外側快速(茨木と六甲道も追加停車)はおろか日本海縦貫特急・急行も新大阪へ停車したが、新快速は1985年3月13日まで新大阪に一切停車しませんでした。神戸は1976年10月1日から停車、姫路発着は1982年11月14日に西明石へ停車。山科は1974年7月20日から新快速停車駅となっていたが長らく湖西線系統のみで、琵琶湖線系統の停車は国鉄末期の1986年11月1日からでした。
@@jojiajordan5942 御丁寧に有難う御座います‼️
新快速ブルーライナーですね。懐かしいです。どれとは言いませんが撮影で有名な我が街での写真もありました。当時の新快速は昼間は内線走り新大阪にも停まらず大阪ー京都を29分で走ってたのを考えると凄いのかも知れませんね。
雷鳥・白鳥は新大阪へ停車する分31分かかりました。国鉄の在来線120km/h運転は1968年10月に開始されたものの大都市近郊は1986年11月改正まで110km/h制限でしたから。関東でもひたちの120km/hは茨城県に入ってからというくらいでしたから。
中学2年生の頃(1979年)明石から京都まで乗車した。当時の途中停車駅は,神戸・三ノ宮・大阪のみで新大阪を通過していた。
やはり新快速は153系!同じ世代ですね!!当たり前にあった153系、今の新快速・・・・馴染めません(@@)
懐かしのブルーライナー、急行比叡や立山などと変わらない車内に感動した。確か姫路~新大阪と草津・野洲・堅田・近江今津~西明石の2パターンだったような。それぞれ途中駅となった新大阪と西明石は通過していたと思う。今では考えられないが昔の国鉄のいい思い出である。
姫路~新大阪でなく、姫路~京都ですね
あとは153/165系時代から米原行きまたは湖西線永原行きの設定さえあれば何も言うことなし。
西明石は1972年3月15日(始発以外は1982年11月15日)、山科は1974年7月20日(琵琶湖線系統は1986年11月1日)、神戸は1976年10月1日、新大阪は1985年3月14日から停車です。新大阪は1972年3月15日に日本海縦貫特急・急行が全停車、大津~西明石は特急も110km/h制限(1986年10月31日まで)ということで新快速の方が早かった。
ブルーライナー塗装はヨンナナサンダイヤ改正前から急行ともや急行鷲羽の運用に入っていましたね!またブルーライナーの新快速登場当時は一部に非冷房車もありました。
新大阪停車って、117系化して暫く経ってからでしたよね?比較的長い間、通過していたように思えます。
1985年(昭和60年)3月14日からです。北陸本線特急の新大阪停車(1972年3月15日)より13年も遅かった。西明石は1982年11月14日まで姫路発着は通過でしたが、始発がありました。
新快速が高槻停車になったのは、平成に入ってからやと思います。
153系のブルーライナーって、12両で走ったことはないんですね。
ラッシュ時間の運転はなかったので、おそらくそうだと思います
@@hawk2567 様なるほど。確かに2ドアでクロスシートはラッシュ時間帯に向いていませんからね。
113系で始まった新快速が153・117の2扉時代を経て221系で再び3扉となったのは、やはり乗降時間が表定速度の足かせとなったからなのだろうか。
利用者と停車駅増加もあり、各駅での乗降にそんな時間をかけられなくなったというのもあると思います新大阪駅すら昭和60年まで通過したそうですから
この頃の新快速今の普通列車と快速が走る線路に新快速とは。別の動画の通りだった。
153系[新快速]誕生時,普通103系は全車非冷房,快速も冷房車は極めて僅か😢。新快速=100%冷房車は天国だった😂
ブルーライナー大好きでした😊。
この時代から新快速あったのですね
ブルーライナー、カッコイイですよね。今昔比較も素晴らしいです。ところで、ギリギリ現車を見た記憶は無いのですが、写真誌に最晩年の写真として低運ながらシールドビーム化されたものが載っていた気がするのですが、記憶違いかなあ
153系は1958年に準急用としてデビュー、その後1964年にかけて製造されました。しかし1968年10月のダイヤ改正からは準急を廃止して急行に昇格するも1972年の山陽新幹線新大阪~岡山間の暫定開業により廃止されたため、余剰になったのを京阪神の新快速用として転用、外部塗色を湘南色から灰色の車体にスカイブルーのラインに変更されました。入口は2ドアで両端に設置されていましたがやがて遅延が発生して車両の老朽化が顕著となり後継となる117系に置き換えられて姿を消しました。by酒向正也
デビューした時は準急用でなかったかな。
東海も比叡も準急だった。
@@tydeentetuota5514 失礼しました。1958年のデビュー時は準急だった、しかし1968年10月のダイヤ改正からは急行に昇格となりました。by酒向正也
@@酒向美由起急行用としてデビューって堂々と書いてるよね。
@@酒向美由起なので、急行用デビューというのは誤り。名目は準急としてデビュー。内装は急行並み。後にこれを元に急行用として165系や、交直流急行電車が制作された。
なんやかんや 名古屋に集結こいた😀
当時撮り鉄で、近江中庄で撮った後に近江今津まで各停で出て、急行加賀に乗ったら暖房が効きすぎて吐きそうになって堅田で降りて、こいつに乗り換えた記憶が中学校の時にある。なんかなつかしい^^その時に近江今津で撮った敦賀行きの各停がキハ58(28かも^^;)二両編成だったなぁw
153系新快速、懐かしいですね確かこの頃の新快速は日中しか走っておらず、最終も18時くらいに西明石止まりだったので、まともに使えなかった記憶があります。
86年に外側線を自由走れるようになってから変わったんでしょうか
外側線は国鉄本社のもの、内側線が大鉄局のものという謎のナワバリがあって、本社が頑なに認めてくれなかったので内側線を快速や普通と一緒に走らざるを得なかったんですよね。そんなアホなことやってた国鉄は、それから15年後、砕け散りました。
153の青車と言えば、阪和線なんよねwだって、153青車時代の新快速には乗って無いからw草津止まりじゃ困るんよ。こっちは祖父宅の河瀬まで行きたいんやからw by50代
2013×→2023です。
ありがとうございます間違っていました
当初はサボがあったのですね!これは知らなかった!昭和47年、当時我輩は幼稚園児でした。今でも覚えているのは、この新快速のテレビCMがあった事。ブルーバックかレッドバックだったか、ブルーライナーのスライド動画と女性のアナウンスによる紹介だったと思います。今思えば、只でさえ国鉄のCM自体が珍しかったのに、幼稚園児の脳裏に焼き付いている程しょっちゅう流していたのは、当時大鉄局が如何に新快速に力を入れていたのかが窺い知れますね!それから、貴殿もしかしたら勘違いをされてないでしょうか?『近江今津』と『堅田』は、同じ駅ではありませんよ!我輩の間違いでしたら申し訳ありませんm(__)m
有難うございますそういえばコマーシャルあったような。またみてみたいですねなお、近江今津行きは週末のみで、平日は堅田止めのダイヤだったように思います。写真の新快速は近江今津駅なので車両前面が堅田となっているのは誤表示です。たぶん開業初日に行ったように記憶しています。
あの中間車2両は増結用?
従兄弟に連れられて梅小路に連れてもらいました。勿論遮光幕は全部閉まってたんですが、大阪らからった乗務員が自分の後ろを除いて開けてくれたんです。嬉しくて従兄弟に「此処で良い!」と言って京都まで楽しみました。
帰りは15時頃の京都始発に乗ったんですが、ガラガラで今の盛況ぶりが信じられませんでした。
大阪~京都間を往路ブルーライナー(153系)、復路シティライナー(117系)と乗り比べた事を思い出します。急行の「お下がり」感もあり少し古びたブルーライナーに比べ、内装が阪急6300系みたいに豪華だったシティライナーにすごく感動したのが懐かしいです。
新快速で使われた車両で一番好きな車両は?と聞かれたら私は今も117系推しです!(今の223系、225系は確かに速いんですが何か車内が無機質に感じるので)
三重県中勢民だったゆえ、153系も新快速も全く縁がありませんでした。ようやく乗れたのは昭和58年5月、既に117系の時代になっていました。もっとも117系も三重では乗れませんでしたから、大興奮したのを覚えています。
153系新快速、一度でいいから乗ってみたかったです。MT46の音はMT54と違って、かなり静かだったらしいですね。
懐かしいですね 高槻在住だったので当時通過でわざわざ大阪まで行き京都まで乗った記憶があり車内販売もありましたね 京都大阪三ノ宮明石西明石でしたね停車駅‥今の新快速は停車駅多すぎる
153系の新快速は幼い頃の憧れでした。懐かしいです。
いつか乗りたいなぁと思っていたらいつの間にか117系に置き換わってしまい、残念に思っていました。
153系の新快速、クハは結構クハ165が入っていました。その後117系の置き換えで状態の良い車両は大垣に移りました。もう時効かな、当時回復運転で130キロ出しているのに乗っていてびっくりしたことがあります。今は223や225で当たり前ですが。
当時の新快速と現在の新快速は全くの別物です。
新快速といったら自分のなかっではやっぱりこの頃。神戸通過の時もありましたね。今は停車駅多すぎる。
153系の新快速の編成はたまに153系の湘南色が中間車両になっているケースも見れましたね。
普段私鉄なんで、ごくたまに国鉄に乗るとこの大きな目玉が怖かったなぁ。
午後3時が最終列車だった国鉄新快速💡
懐かしい✨
大阪を出たら新大阪高槻を止まらず京都までノンストップでしたよ
神戸駅も通過でしたね。
そうですね、当時は特に新大阪に止まるようになったときは、尖りがなくなりとても寂しい気がしました。
でも今は欠かせないですし、両数、本数、速度とも本当に便利に進化しましたね。
@@hawk2567様
然し新大阪と高槻を止まっても当時と大阪~京都まで所要時間が変わらないのが凄いですね‼️贅沢を言えばAシートをもっと増やして欲しいです‼️
万博前は快速すら通過していた新大阪。
茨木、六甲道、垂水とともに1970年3月8日から内側快速が停車。
1972年3月15日の山陽新幹線岡山開業で外側快速(茨木と六甲道も追加停車)はおろか日本海縦貫特急・急行も新大阪へ停車したが、
新快速は1985年3月13日まで新大阪に一切停車しませんでした。
神戸は1976年10月1日から停車、
姫路発着は1982年11月14日に西明石へ停車。
山科は1974年7月20日から新快速停車駅となっていたが長らく湖西線系統のみで、琵琶湖線系統の停車は国鉄末期の1986年11月1日からでした。
@@jojiajordan5942
御丁寧に有難う御座います‼️
新快速ブルーライナーですね。
懐かしいです。
どれとは言いませんが撮影で有名な我が街での写真もありました。
当時の新快速は昼間は内線走り
新大阪にも停まらず大阪ー京都を29分で走ってたのを考えると凄いのかも知れませんね。
雷鳥・白鳥は新大阪へ停車する分31分かかりました。
国鉄の在来線120km/h運転は1968年10月に開始されたものの大都市近郊は1986年11月改正まで110km/h制限でしたから。
関東でもひたちの120km/hは茨城県に入ってからというくらいでしたから。
中学2年生の頃(1979年)明石から京都まで乗車した。当時の途中停車駅は,神戸・三ノ宮・大阪
のみで新大阪を通過していた。
やはり新快速は153系!同じ世代ですね!!当たり前にあった153系、今の新快速・・・・馴染めません(@@)
懐かしのブルーライナー、急行比叡や立山などと変わらない車内に感動した。確か姫路~新大阪と草津・野洲・堅田・近江今津~西明石の2パターンだったような。それぞれ途中駅となった新大阪と西明石は通過していたと思う。今では考えられないが昔の国鉄のいい思い出である。
姫路~新大阪でなく、姫路~京都ですね
あとは153/165系時代から米原行きまたは湖西線永原行きの設定さえあれば何も言うことなし。
西明石は1972年3月15日(始発以外は1982年11月15日)、
山科は1974年7月20日
(琵琶湖線系統は1986年11月1日)、
神戸は1976年10月1日、
新大阪は1985年3月14日
から停車です。
新大阪は1972年3月15日に日本海縦貫特急・急行が全停車、
大津~西明石は特急も110km/h制限(1986年10月31日まで)
ということで新快速の方が早かった。
ブルーライナー塗装はヨンナナサンダイヤ改正前から急行ともや急行鷲羽の運用に入っていましたね!またブルーライナーの新快速登場当時は一部に非冷房車もありました。
新大阪停車って、117系化して暫く経ってからでしたよね?
比較的長い間、通過していたように思えます。
1985年(昭和60年)3月14日からです。
北陸本線特急の新大阪停車(1972年3月15日)より13年も遅かった。
西明石は1982年11月14日まで姫路発着は通過でしたが、始発がありました。
新快速が高槻停車になったのは、平成に入ってからやと思います。
153系のブルーライナーって、12両で走ったことはないんですね。
ラッシュ時間の運転はなかったので、おそらくそうだと思います
@@hawk2567 様
なるほど。確かに2ドアでクロスシートはラッシュ時間帯に向いていませんからね。
113系で始まった新快速が153・117の2扉時代を経て221系で再び3扉となったのは、やはり乗降時間が表定速度の足かせとなったからなのだろうか。
利用者と停車駅増加もあり、各駅での乗降にそんな時間をかけられなくなったというのもあると思います
新大阪駅すら昭和60年まで通過したそうですから
この頃の新快速
今の普通列車と
快速が走る線路に
新快速とは。
別の動画の通りだった。
153系[新快速]誕生時,普通103系は全車非冷房,快速も冷房車は極めて僅か😢。新快速=100%冷房車は天国だった😂
ブルーライナー大好きでした😊。
この時代から新快速あったのですね
ブルーライナー、カッコイイですよね。今昔比較も素晴らしいです。
ところで、ギリギリ現車を見た記憶は無いのですが、写真誌に最晩年の写真として
低運ながらシールドビーム化されたものが載っていた気がするのですが、記憶違いかなあ
153系は1958年に準急用としてデビュー、その後1964年にかけて製造されました。しかし1968年10月のダイヤ改正からは準急を廃止して急行に昇格するも1972年の山陽新幹線新大阪~岡山間の暫定開業により廃止されたため、余剰になったのを京阪神の新快速用として転用、外部塗色を湘南色から灰色の車体にスカイブルーのラインに変更されました。入口は2ドアで両端に設置されていましたがやがて遅延が発生して車両の老朽化が顕著となり後継となる117系に置き換えられて姿を消しました。by酒向正也
デビューした時は準急用でなかったかな。
東海も比叡も準急だった。
@@tydeentetuota5514 失礼しました。1958年のデビュー時は準急だった、しかし1968年10月のダイヤ改正からは急行に昇格となりました。by酒向正也
@@酒向美由起
急行用としてデビューって堂々と書いてるよね。
@@酒向美由起
なので、急行用デビューというのは誤り。
名目は準急としてデビュー。
内装は急行並み。
後にこれを元に急行用として165系や、交直流急行電車が制作された。
なんやかんや 名古屋に集結こいた😀
当時撮り鉄で、近江中庄で撮った後に近江今津まで各停で出て、
急行加賀に乗ったら暖房が効きすぎて吐きそうになって堅田で降りて、こいつに乗り換えた記憶が中学校の時にある。
なんかなつかしい^^
その時に近江今津で撮った敦賀行きの各停がキハ58(28かも^^;)二両編成だったなぁw
153系新快速、懐かしいですね
確かこの頃の新快速は日中しか走っておらず、最終も18時くらいに西明石止まりだったので、まともに使えなかった記憶があります。
86年に外側線を自由走れるようになってから変わったんでしょうか
外側線は国鉄本社のもの、内側線が大鉄局のものという謎のナワバリがあって、本社が頑なに認めてくれなかったので内側線を快速や普通と一緒に走らざるを得なかったんですよね。そんなアホなことやってた国鉄は、それから15年後、砕け散りました。
153の青車と言えば、阪和線なんよねwだって、153青車時代の新快速には乗って無いからw
草津止まりじゃ困るんよ。こっちは祖父宅の河瀬まで行きたいんやからw by50代
2013×→2023です。
ありがとうございます
間違っていました
当初はサボがあったのですね!これは知らなかった!
昭和47年、当時我輩は幼稚園児でした。今でも覚えているのは、この新快速のテレビCMがあった事。ブルーバックかレッドバックだったか、ブルーライナーのスライド動画と女性のアナウンスによる紹介だったと思います。
今思えば、只でさえ国鉄のCM自体が珍しかったのに、幼稚園児の脳裏に焼き付いている程しょっちゅう流していたのは、当時大鉄局が如何に新快速に力を入れていたのかが窺い知れますね!
それから、貴殿もしかしたら勘違いをされてないでしょうか?『近江今津』と『堅田』は、同じ駅ではありませんよ!我輩の間違いでしたら申し訳ありませんm(__)m
有難うございます
そういえばコマーシャルあったような。またみてみたいですね
なお、近江今津行きは週末のみで、平日は堅田止めのダイヤだったように思います。
写真の新快速は近江今津駅なので車両前面が堅田となっているのは誤表示です。
たぶん開業初日に行ったように記憶しています。
あの中間車2両は増結用?